【看護師】筋ジストロフィー科で働いた若かりし私へ。嫌なら辞めて他を当たる選択をしよう!給与面で優遇されているところには、何かしら過酷な勤務の現状がありますよと伝えたい。

【看護師】筋ジストロフィー科で働いた若かりし私へ。嫌なら辞めて他を当たる選択をしよう!給与面で優遇されているところには、何かしら過酷な勤務の現状がありますよと伝えたい。

【性別】女性
【年齢】(仕事が大変だった当時)
24歳

【当時の職業】
独立行政法人筋ジストロフィー科(元の国立病院)

【当時の住まい】
大東建託の2LDK。
リビングダイニングは12畳くらいある、それはそれは贅沢な暮らしでした。
今となってはもっと堅実に貯金すべきでした。

【その仕事はまだ続けてる?もう辞めた?】
今は退職し主婦





【就職のきっかけと経緯】
卒業した系列の病院で、新人として馴染めなくて退職したあと、一年間は耳鼻科の個人医院で働きました。
地下鉄沿線にあり、土曜日午前中の患者数は、花粉症の時期である2月だと、130人位くる医院でした。
先生が親子で二人でやっていたからです。
激務で器材の消毒数も多く、それも看護師の仕事でした。
多忙ななかで、人間関係もうまくいっていたので、再度大きな病院で勉強したいという気持ちになり、受験しました。

【環境と仕事内容】
看護師三年目、リーダー業務研修を受けていました。
患者の数は50名。
職員は20人位いたと思いますが、不確かです。
通常日勤は8人くらい、深夜準夜は3人勤務です。
日勤深夜なので、激務ではありますが休みは月8回ありました。
患者は神経質で、話せない分、要求が通らないと舌打ちしてきます。
眉毛の動きでOKサインを出します。
給与面は優遇されており、危険手当てかな?がでて、手取り30万あったと思います。
寮もありましたが、入ったことはありません。

【大変だった時期】
日勤深夜の勤務があり、三年目と計算上はなっていたので、リーダー業務研修を受けており、夜7時まで日勤して、深夜11時に起きて夜勤する勤務をしていました。
長時間労働であることが、辛かったです。




【大変だったこと】
50代の方も多く、仕事が遅いと陰口を立てられます。
それが一番怖かったですね。
労働時間が長いことで、大変な想いをしましたが、再度大きな病院で勉強したいという気持ちで2年は在籍しましたが、体調を崩したため退職しています。
腰痛、坐骨神経痛も発症し、休日は月二回くらいマッサージを受けていました。
整体でしたので、保険がきかず、一回5000円くらいはしたと思います。
神経ブロックも受けましたが、一時的な痛みの解消のみで、改善には至らないです。
そのため、リスクも考慮し、怖くて一回だけで止めました。
初めに申しましたが、50代の主婦層たちも怖かったですね。
お局がいて、新人のことを告げ口したりします。
お局様は、看護助手です。
安い給料で働かされている不満があったのだと思います。
その方も手首が痛くて勤めているのに、新人の動きが悪いと、自分に業務の負担が掛かるため、不満もあったことは今となっては理解できますが、新人で入った当初はとても怖かったです。

【大変だった期間】
24才から26才までです。
場所を変えたくて、退職しています。




【当時の心境】
大きな病院で再度看護師の勉強をしたい気持ちがありましたが、患者の要求の高さや、人間関係の悪さがとても辛かったです。
給料面では優遇されていましたが、当時は看護師の給料は夜勤をしていればそのくらいだろうと思っていたので、お金は出ていくばかりでした。
仕事のストレスを遊んだり、ショッピングをして解消していました。

【職場が大変だった原因】
新人なので、仕事は遅いし、患者のベストポジションを把握するまでには時間を要します。
覚えてしまえば感覚で出きるのですが、若くて不器用でしたので、覚えるまでは苦労しました。




【仕事で良かったこと】
今となっては特に思い浮かびません。
給与面は優遇されていたので、広くてオシャレな家に住んで、休日は沢山遊ぶ。
そんな生活だけが唯一の救いでした。
一年を過ぎる頃、仕事が出きるようになり、先輩に「早くなったね」と認められたときは嬉しかったです。




【特にひどかった最悪の出来事】
夜勤リーダーの時に、人工呼吸器の気管挿管の方が自己抜去した時は大変な想いをしました。
幸い先輩二人がベテランさんだったので、処置はおまかせして、当直医師などへの連絡に回れたので、その時は助かりました。
先輩がいなかったら正直対処は難しかったと思います。
夜勤を明けたときに、患者自らの自己抜去であるのに、当時はインシデントを積極的に書かされる時代で、先輩がインシデント用紙を書くのを待って帰って、3人最悪な気分のまま勤務を終えたことも、かなりの精神的ダメージでした。
若くて何もできないのですが、リーダーであったことに責任を感じました。
当時の私はそういう事ばかりを気にしていました。
今となっては患者の自己抜去がインシデント扱いになることの意味が理解できません。
そういうおかしな責任の重さが、看護師の数を減らしてしまうところもあると思います。
基本的に看護師は真面目なので、そこに責任を感じて辞めてしまう人もいるからです。




【相談した人・助けてくれた人】
いないですね。
助けてくれる人もいなかったですし、そこが一番辛かったです。
ただ、私の後に入ってきた同じ年の看護師さん(部署異動で配属になりました。
)とは仲良くなり、温泉に行ったりしました。
仕事の愚痴はさほど言い合わなかったです。

【改善のための行動】
とにかく仕事を覚えて早く回すことをやりました。
無駄な動きを防いで動くことをそこで習得しました。
ただ、早くなるといつしか先輩より沢山の患者数の起床介助をするようになりました。
「早くなったね」と言われた時は嬉しかったです。




【現在の状況と心境の変化】
労働条件が過酷であったなと感じます。
他の病院もそのあと経験しましたが、給与面ではもちろん10万安くなりましたが、坐骨神経痛は軽くなりました。
患者は神経質で、幼い頃から世話をしてもらうのが当たり前と思っていて、看護師を召し使いとして扱い、暴言を吐く患者もいます。
障害があることでの苛立ちはあるのでしょうが、世話をしている側としては「ありがとう」もなく、やりがいはありません。

【学んだこと】
無理な労働条件の所では働かないということです。
職場のある程度の実情を知って入職しなくてはならないと学びました。



【当時の自分へのアドバイス】
貯金しときなよ。
とは言いたいですね。
そこの給与が看護師としての標準ではないことを伝えたかったですね。
給与が良いということは、過酷な労働であることを学びました。
それから、嫌ならバカ真面目にやってないで見きりをつけた方が良いことを教えたかったですね。
看護師の仕事も色々な仕事があり、そこだけが全てではない。
やり直しはきくことを、その後の人生で学びました。